用日语介绍北京导游词

2024-05-02

用日语介绍北京导游词(精选9篇)

篇1:用日语介绍北京导游词

北京导游词日语

天壇公園は北京の旧外城(きゅうがいじょう)にあります。その面積は273万平方メートルで、現存する中国最大の祭祀(さいし)建造物です。現在は北京市崇文区の4分の1を占める公園となっています。明と清の両時代に皇帝が天に五穀豊饒(ごこくほうじょう)を祈った所でした。毎年1月15日に穀物の豊作を祈る行事をやり、冬至(とうじ)には天を祀る行事も行います。雨の少ない年には常雩礼、大雩礼という雨乞いもします。各種の行事を行う前の3日間、皇帝は斎宮で精進潔斎(しょうじんけっさい)をします。「祈穀(きこく)」は祈年殿で行いました。その際皇帝が殿内で礼をすると同時に、殿外では音楽を鳴らしたり、踊ったり、燎炉(りょうろ)に香をたき、神に供える生け贅(いけにえ)が次から次へと神の位牌(いはい)の前に捧げられ、祈年殿はおごそかな雰囲気でいっぱいとなりました。

1368年、太祖(たいそ)の朱元璋(しゅげんしょう)が明王朝を創立し、都を南京に定めました。天と地の神様を祀るために、1378年大祀殿(だいしでん)を築きました。14成祖(せいそ)の朱棣(しゅてい)が都を北京に移し、故宮を築くと同時に、南京の大祀殿を手本として北京で天地壇(今の天壇は昔天地壇といわれていた)を設け、幅12軒の大祀殿を建て、ここで神様を祀ることにしました。当時の大祀殿は12軒の正殿のほかに両側に32軒の廊下と神倉(しんそう)も造られ、正殿の前には大祀門もありました。

1530年、明代の世宗(せいそう)が天と地の神は別々に祀るべきだという大臣の提案を聞き入れ、大祀殿の南に圜丘(かんきゅう)を作り、北の郊外に方沢(ほうたく)を設け、圜丘では天の神を祀り、方沢では地の神を祀るようになりました。そして1534年圜丘を天壇、方沢を地壇と名付けました。

明代の天壇は漢白玉石(かんはくぎょくせき)という大理石よりもっと白い石も使いましたが、主に青色の琉璃瓦で造りました。そして四天門(してんもん)、神厨(しんちゅう)、神庫(しんこ)、宰牲亭(さいせいてい)があり、神の位牌(いはい)を置くため圜丘の北に2重屋根の円い形の神泰殿(しんたいでん)も築き、円形の壁でその殿堂を囲みました。それがのちの皇穹宇(こうきゅうう)と名付けられた殿堂と廻音壁(かいおんへき)です。

1538年祈穀殿(きこくでん)と名が変わった大祀殿は廃棄されましたが、1540年大享殿(だいきょうでん)が建築されることになりました。1545年に出来上がった大享殿も円い形で3重の屋根があり、その色は下から上に緑、黄、青となっています。6年を費して建てられた大享殿は明代ではただの2回しか使ったことがありませんでした。

1750年大享殿の左右2棟ずつの配殿も1棟ずつに直し、配殿に置く日、月、星、辰、山、川、河、湖、風、雨、雷、稲妻などの神の位牌がすべて撤去され、皇帝の祖先の位牌に変わりました。

1751年大享殿と大享門が祈年殿と祈年門に変えられ、屋根の色も全部藍色(あいいろ)にされました。 1889年、雷で350年の歴史を持った祈年殿は焼けてしまいましたが、その時建物は全部沈香(じんこう)の木で造ってあったので、その香りが周囲数キロにもわたって漂っていたそうです。

1890年再建にかかり、18やっともとの形と同じような新たな祈年殿が築かれました。

清が滅びた時残っていた天壇は273ヘクタールもある広い名勝地でした。1枚の壁が天壇を外壇と内壇に分け、壁は北は円く、南は四角い形になっています。外壁の長さは6416メートルで、内壁の長さは3292メートルあります。門は2つあります(ほかの3つの門のうち、北と東の門は民-国時代に作ったもので、南の門は解放後作ったものです)。外壇には松と檜がいっぱい植えてあり、建物など一つも見えません。建物はほとんど内壇に集まっています。内壇を北から見ればまず神の位牌を置く場所としての皇乾殿(こうけんでん)が立っています。まずこれを簡単にご紹介致します。

篇2:用日语介绍北京导游词

大政殿の外侧の木造の轩は、チベット教の建筑特征を备えた 面雕塑も参考にしている

帐殿式という共同な建筑式が采用されている大政殿から、褐葑澶 菰 违匹螗任幕 嗽搐虬kし、褐荨⒑骸 隶佶氓取⒚晒扭胜芍蠲褡澶挝幕 蚰诎 贰 饯谓ㄖ 醉栅馊诤悉丹护郡猡韦趣胜盲皮い毪长趣 铯 搿9 瞍胃撙丹晚9メ トルあり、外から见ると八角形をしている。真反面のI柱には、それぞれ、头を高く上げ、爪を振るい、跃如として真に迫った金色の吠がからみついている。中に入ると、中央の八本の盘吠柱(吠がからみついている柱)に欷蓼欷刻ㄗ 紊悉恕⒛镜瘠辘私鹉啶问─丹欷坑褡 瑜堡椁欷皮い搿L炀 沃醒毪摔细oの戆袱 踏蓼臁 饯韦蓼铯辘恕⒋工炷弧⒏!⒙弧⑹佟⑾菠挝淖斟戆浮 饯筏裴倚亭违单螗攻 辚氓趣文镜瘠辘 ─丹欷皮い搿9 钊 澶霞 噬 斯猡昊预 ⒆炒螭释 を放っている。事先、即位したばかりの清の太宗ホンタイジは、文武百官の前で明朝の「仁椤工颀却し、明朝との决别を公布した。1644年、顺治帝はここで收兵令を し、山海柙を攻め落としてまっしぐらに中原に攻め入り、清王朝による中国一致という大业を遂げた。

渖阳故宫(しんようこきゅう )は中国の辽宁省渖阳市内に残る清朝の离宫である。盛京皇宫と呼ばれていた。(しんようこきゅうはちゅうごくのりょうねいしょうしんようしないにのこるしんちょうのりきゅうである。せいきょうこうきゅうとよばれていた。)

北京の故宫と并んで保存状态の良い後金时代の皇居である。建筑様式は汉民族、満州民族、蒙古民族の様式が融合している。规模は北京の故宫の12分の1である。1625年に建てられた後金の2人の皇帝・ヌルハチとホンタイジの皇居で、清の入関後は引き続き离宫として用いられた。(ぺきんのこきゅうとならんでほぞんじょうたいのいいこうきんじだいのこうきょである。けんちくようしきははんみんぞく、まんしゅうみんぞく、もんこみんぞくのようしきがゆうごうしている。きぼはぺきんのこきゅうの12ぶんの1である。1625ねんにたてられたこうきんのふたりのこうてい・ヌルハチとホンタイジのこうきょで、しんのにゅうかんごはひきつづきりこんとしてもちいられた。)

1961年に中华人民共和国の全国重点文物保护単位に指定された。にユネスコの世界遗产(文化遗产)、北京と渖阳の明・清王朝皇宫に追加登録された。现在は渖阳故宫博物院として一般公开されている。

篇3:北京职称日语考试题型介绍

(一)词汇、惯用型

考试所涉及的词汇及惯用型主要限于大纲词汇表和惯用型表,对申报不同级别的应试者要求认知的词汇量不等。

1、申报A级的人员应认知7000个左右的单词和相应的惯用型。

2、申报B级的人员应认知5000个左右的单词和相应的惯用型。

3、申报C级的人员应认知3500个左右的单词和相应的惯用型。

(二)语法知识

虽然考试重点考查应试者的阅读理解能力,但应试者必须懂得日语基本语法结构和句型,并能正确理解用这些结构和句型写成的句子。

1、日语句子的基本语序及意义;(日语中的语序与汉语有很大的区别,有人说是与汉语完全相反的。其实不然,相反的部分当然不少,但也有一部分是符合汉语语序的。这是我们中国人学习日语的优势,记忆时只需去体会那些与汉语不同之处即可。

2、日语句子的结构和常用句型;(日语中的常用句型很多,记忆时重点应在前后的接续与句型的含义。)

3、各种时态的变化及其意义;(同英语相似,日语中也有很多时态的变化。这些时态存在不同的变化形式,需要一一记忆。时态的变化一般出现在动词、形容词、或形容动词及名词的词尾)

4、句际之间的所指、省略、替代、重复、逻辑关系等;(对这方面内容的考查主要体现在连接词填空、阅读理解等试题中;需要强调的是日语中的一些较为特殊的词汇,(日语中的暧昧现象!)例如:一部分的词语后续只能是否定,当句子中出现

这类词语时,即使句子的后半部被省略,应试者有也该知道出题人想要表达的.是否定的意思。

5、敬语的基本用法及授受关系;(敬语是日语的一个显著特点,可以反映出一个人的教养问题。当与长辈或较有权威的人交谈时,经常使用。这与日本民族谦卑知礼的文化背景有关;(简体、礼貌语、敬语)。授受关系即“给予与接受”的关系(互惠、恩情),日本是一个重视礼仪的民族,所以在语言方面也要较其他民族苛求一些,在日语中关于这一方面的语法也自成一个系统,,这个我们会在今后的学习汇总单独提出来,重点讲解。)

(三)阅读理解能力

考试不分学科和专业。应试者应能综合运用日语语言知识和阅读技能来理解一般的日语书面材料。阅读技能包括下列几个方面:

1、掌握所读文章的主旨和大意;(这是要求考生对所给文章有一个整体的把握能力,一般一篇文章的主旨都会出现在文章的首段或最后一段。比较值得提倡的一种方法是先看问题,后看文章,这样可以有的放矢地,重点问题重点解决。若问题中出现了宏观把握的题型的话,可以重点考察首尾两段内容。)

2、了解阐述主旨的事实和细节;(解答这类细节题型也要有一定的技巧,要针对问题直接去寻找答案,不要在考试中浪费不必要的时间。这类题一般在原文都能找到准确答案,而它的目的就是要考生浪费大量的时间去寻找答案。)

3、根据上下文判断某些词汇和短语的意义;(这类题型说明了一个问题,那就是即使我们所储备的词汇量不足,也可以通过一些逻辑推断的方法来解决问题。因此,我们在平时记忆时就可以不去事无具细的去记忆所有的单词了。)

4、既要理解个别句子的意义,也要理解上下文之间的逻辑关系;(这里主要强调的是逻辑关系,因此,文章中的连接词等能够表现前后关系的词语就格外重要。)

5、根据所读文章进行一定的判断;

篇4:介绍草原的日语导游词

ここには120種類以上の栄養が豊富な牧草が生えています。中国で現存する最も美しい優良牧場です。豊かで美しい水草はほとんど汚染されていません。

草原に近づいて見渡すと、見渡す限り青々としていて、目の中は緑で、中には白い羊の群れが点在しています。巨大な緑の絵巻のように、果てしなく広がっています。芝生を歩いていると、空気がとても新鮮で、なんとも言えない奇妙な感じがします。みんなも冬にここに旅行に来て、冬のフルンブイルは氷と雪の世界で、ここの美しい景色はあなたを童話のような世界に身を置くようにならせて、毎年12月にここで氷祭りを催して、氷の上で魚をとって、マラソリ、ラクダなどの活動があります。

草原に来たら、フルン湖に行くことを忘れないでください。フルン湖とベル湖についてもう一つの伝説があります。昔、草原には恋人同士がいました。女の子は歌も踊りも上手で、才色兼備で、フルロンといいました。男の子の力は比類がなくて、善射に乗ることができて、名前はベルと言って、彼らは草原と妖魔を救うために勇敢に闘って殺して、最後に女の子は湖水に変わって大衆の妖怪を溺死して、男の子は女の子を探して勇敢に湖に投げて、そこで彼らの双組は代々草原のフルン湖とベル湖を潤すことになりました。

湖のそばに立って見渡すと、果てが見えなくて、海のように広いです。湖のほとりでは、晴れたばかりの空と一瞬にして風雲が急に変わり、大雨が降ったが、西の太陽は消えなかった。これが「太陽の雨」である。一面に雷鳴がとどろき、一面には太陽の光が美しく、赤い顔をしている。この時、フルン湖の高い橋をかけて、草原が最も盛大な礼儀で祝福しているのを見ることができる。

篇5:介绍草原的日语导游词

みんなは見てください。遠くにガラスのような細い帯があります。川です。ちょっと見に行きましょう。川沿いの小さい花はきれいではないですが、遠くから見るととても美しいです。この小さな花はかすかな風の中で揺れ動いていて、私たちを迎えてくれるようです。

今はもう草原の美しい景色を鑑賞しました。それから、みんなを連れて草原の家に遊びに行きます。モンゴル同胞はとても親切で客好きで、彼らはミルク豆腐とミルクティーで私達をもてなしてくれます。私達の生活の中で、私達は高層ビルに住んでいますが、モンゴル族の人々はモンゴルカバンに住んでいます。私達の家は全部何室ですか?

部屋

中に入って、あぐらをかいて座ったら、おいしい料理をごちそうしてくれる人がいます。ある時、老人は私達にお酒を勧めてくれます。ある時、幹部は私達にお酒を勧めてくれます。そして、大きな皿の手で羊肉をつかんでいます。モンゴル族の人々は本当に親切です。夕食後、みんなはここで民族舞踊やレスリングを見て、リラックスしてください。

今回の游びはこれで终わります。

篇6:大连介绍的日语导游词

大連は、コン城、浜城とは別名で、旧名ダーニー、青泥窪と呼ばれています。遼東半島の南端に位置し、黄渤海の浜に位置し、中国東北の奥地に背を向け、山東半島と海を隔てて眺めている。大連は中国東部沿海の重要な経済、貿易、港、工業、観光都市です。大連は歴史が長く、第一次アヘン戦争、第二次アヘン戦争の間、英軍が大連地区を侵略しました。日清戦争と日露戦争の主要な戦場として、大連は近代史の上でかつて2回の大きい戦争の強奪を被って、ロシア、日本の植民地のほぼ半世紀に成り果てます。大連の環境はとても素晴らしいです。冬は厳寒がなく、夏は酷暑がなく、「東北の窓」、「北方の明珠」、「ロマンチックな都市」と言われています。中国東北の対外開放の窓口と最大の港都市です。中国の一番いい観光都市、国際花園都市、国家環境保護模範都市などの栄誉称号を獲得しました。20__u u_年6月、中国第十の国家級新区大連金普新区が正式に設立されました。20__u u_年9月、ミルケン研究所は「中国最高表現都市」という報告を発表しました。大連海は全国の大都市第4位です。大連は中国北方の重要な港、貿易、工業、観光都市であり、1984年に国の許可を得て沿海開放都市となり、1985年にまた計画単列市として認可され、省レベルの経済管理権限を享受しています。全市は6区3市1県を管轄して、陸地面積は12574平方キロメートルで、その中の市管轄区の面積は2415平方キロメートルで、20__u年末には全市の戸籍人口は560.16万人です。

篇7:日语留学用的自我介绍

2、私は仕事キャリアを持っていません、しかし、貴社に採用された場合は全力を尽くして、仕事に頑張ります、この面、ご安心ください、ちょっとむりなようきゅうかもしれませんが、一かげつ4000げんほしいんですけれども

3、そうですね、この問題はちょっと答えにくいんですけれど,南妨の生活費は北方よりずっと高いですので、試用期間の時は、職種賄で4000元ほしいんです

篇8:介绍北京景点导游词

解放初期将部分年久失修的殿堂拆除,并新建了一些房舍,现潭柘寺共有房舍943间,其中古建殿堂638间,建筑保持着明清时期的风貌,是北京郊区最大的一处寺庙古建筑群。潭柘寺不但人文景观丰富,自然景观也十分优美,春夏秋冬各自有景,晨午晚夜情趣各异,早在清代“潭柘十景”就已经名扬京华。

潭柘十景:平原红叶、九龙戏珠、千峰拱翠、万壑堆云、殿阁南薰、御亭流杯、雄峰捧日、层峦架月、锦屏雪浪、飞泉夜雨

潭柘寺位于北京西部门头沟区东南部的潭柘山麓,距市中心30余公里。寺院坐北朝南,背倚宝珠峰。潭柘寺寺内占地2.5公顷,寺外占地11.2公顷,再加上周围由潭柘寺所管辖的森林和山场,总面积达121公顷以上。

潭柘寺始建于西晋永嘉元年(公元320_年),寺院初名“嘉福寺”,清代康熙皇帝赐名为“岫云寺”,但因寺后有龙潭,山上有柘树,故民间一直称为“潭柘寺”。

20_年12月18日,北京门头沟区责令景区撤除违规功德箱。

潭柘寺始建于西晋永嘉元年(公元320_年),寺院初名“嘉福寺”,到了清代,康熙皇帝赐名为“岫云寺”。由于寺后有龙潭,山上有柘树,故一直称为“潭柘寺”。民间素有“先有潭柘寺,后有北京城”的民谚。潭柘寺距今已有1700多年历史,是北京最古老的古寺。

潭柘寺规模宏大,总面积达121公顷以上。殿堂随山势高低而建,错落有致。北京城的故宫有房9999间半,潭柘寺在鼎盛时期的清代有房999间半,俨然故宫的缩影,据说明朝初期修建紫禁城时,就是仿照潭柘寺而建成的。现潭柘寺共有房舍943间,其中古建殿堂638间,建筑保持着明清时期的风貌,是北京郊区最大的一处寺庙古建筑群。潭柘寺不仅以古迹众多、风景优美吸引着四海宾朋、八方游客,而且近几年还修建了现代化的旅游服务设施,实行交通、住宿、餐饮、游览、娱乐、购物的一条龙服务,使景区成为享誉中外的旅游胜地。,经北京市政府批准,僧团进驻,潭柘寺恢复了宗教活动。

潭柘寺寺院坐北朝南,主要建筑可分为中、东、西三路,中路潭柘寺主体建筑有山门、天王殿、大雄宝殿、斋堂和毗卢阁。东路有方丈院、延清阁、行宫院、万寿宫和太后宫等。西路有愣严坛(已不存)、戒台和观音殿等,庄严肃穆。此外,还有位于山门外山坡上的安乐堂和上、下塔院以及建于后山的少师静室、歇心亭、龙潭、御碑等。塔院中共有71座埋葬和尚的砖塔或石塔。

山门外是一座3楼4柱的木牌坊,牌楼前有古松二株,枝叶相互搭拢,犹如绿色天棚,牌楼前有一对石狮,雄壮威武。过牌坊是单孔石拱桥,名“怀远桥”,过桥就是山门。

天王殿殿中供弥勒像,背面供韦驮像,两侧塑高约3米的四大天王神像。天王殿两旁为钟鼓楼,后面是大雄宝殿。宝殿面阔五间,重檐庑殿顶,黄琉璃瓦绿剪边,上檐额题“清静庄严”,下檐额题“福海珠轮”。

正脊两端各有一巨型碧绿的琉璃鸱吻,是元代遗物,上系以金光闪闪的鎏金长链。殿内正中供奉硕大的佛祖塑像,神态庄严,后有背光,背光上雕饰有大鹏金翅鸟、龙女、狮、象、羊、火焰纹等。佛像左右分立“阿难”、“伽叶”像,均为清代遗物。大雄宝殿后为斋堂院,是和尚们吃饭的地方,堂后有三圣殿,但此二殿均已拆除。只剩两株娑罗树和两株银杏树,树体高大。中轴线终点是一座楼阁式的建筑,名毗卢阁,高二层,木结 构。站在毗卢阁上纵目远眺,寺庙及远山尽收眼底。

寺院东路由庭院式建筑组成,有方丈院、延清阁 潭柘寺白华松(2张)和清代皇帝的行宫院,主要建筑有万寿宫、太后宫等。院中幽静雅致、碧瓦朱栏、流泉淙淙、修竹丛生,颇有些江南园林的意境。院内有流杯亭一座,名猗轩亭。[5]

寺院西路大多是寺院式的殿堂,主要建筑有戒坛、观音殿和龙王殿等等,一层层排列,瑰丽堂皇。戒坛是和尚们受戒之处,台上有释迦牟尼像,像前有三把椅子,两侧各有一长凳,是三师七证的坐处;观音殿是全寺最高处,上有乾隆手书莲界慈航,内供观世音菩萨,敛目合什,隽秀端庄。

潭柘寺始建于西晋愍帝建兴四年(320_年),是佛教传入北京地区后修建最早的一座寺庙。始创时规模不大,名叫嘉福寺。当时佛教还未能被民间所接受,因而发展缓慢。以后又出现了北魏和北周两次“灭佛”,故而嘉福寺自建成之后,一直未有发展,后来逐渐破败。

唐代武则天万岁通天年间(696-6),佛教华严宗高僧华严和尚来潭柘寺开山建寺,“持《华严经》以为净业”,潭柘寺就成为了幽州地区第一座确定了宗派的寺院,潭柘寺得到兴盛。

唐代会昌年间,唐武宗李炎崇信道教,在道士赵归真和权臣李德裕的怂恿下,唐武宗下令在全国排毁佛教。潭柘寺也因此而荒废。

五代后唐时期,著名的禅宗高僧从实禅师来到了潭柘寺,铲除荒夷,整修寺院,“师与其徒千人讲法,潭柘宗风大振”,才使潭柘寺走出了“武宗灭佛”的阴影,重又繁盛了起来。当时的潭柘寺也从此由华严宗改为禅宗。

辽代时期由于幽州地区律宗大盛,而禅宗则发展缓慢,潭柘寺的香火衰微。

金代,禅宗在中都(今北京)地区有了很大的发展,潭柘寺先后出现了数位禅宗大师,大大提高了寺院的声誉。金熙宗完颜亶于皇统元年(1141年)到潭柘寺进香礼佛,并拨款对潭柘寺进行了整修和扩建,这是第一位到潭柘寺进香的皇帝,使后代皇帝争相效仿,这对于进一步提高潭柘寺的地位,繁盛寺院香火,都起到了极大的推动作用。金熙宗将当时的寺名龙泉寺改为“大万寿寺”,拨款对潭柘寺进行了大规模的整修和扩建,开创了皇帝为潭柘寺赐名和由朝廷出资整修潭柘寺的先河。

金大定年间,皇太子完颜允恭代表其父金世宗完颜雍到潭柘寺进香礼佛,当时的住持僧重玉禅师为此特写下了《从显宗幸潭柘》一诗,记述了当时的盛况,后于明昌五年(1194年)镌刻成碑,立于寺中,现此碑犹存,镶嵌在金刚延寿塔后边地阶的崖壁上。

在金代,潭柘寺禅学昌盛,其代表人物是临济宗大师广慧通理禅师开性。开性是现今北京怀柔县人,9岁时在潭柘寺出家,拜戒振禅师傅为师,学习禅宗中临济宗佛学。后来云游辽东和齐鲁等地,遍访名山古刹,向各地高僧学习佛法,归来后在马鞍山竹林寺弘扬禅学。大定初年,潭柘寺的善海禅师带领僧众来到竹林寺,恭请开性回潭柘地任住持。开性任住持期间,在朝廷的资助下,对潭柘寺进行了长达20_年的大规模整修和扩建,使潭柘寺的殿宇堂舍焕然一新。使潭柘寺的禅学从此中兴,开性也成了金中都地区公认的禅宗临济宗的领袖,使潭柘寺成为了临济宗的中心寺院。开性终老于寺中,圆寂后被佛门尊为“广慧通理”禅师。

元代元世祖忽必烈的女儿,妙严公主为了替其父赎罪,而到潭柘寺出家。后终老于寺中,她每日里在观音殿内跪拜诵经,“礼忏观音”,年深日久,竟把殿内的一块铺地方砖磨出了两个深深的脚窝。现今妙严公主“拜砖”依然供奉在潭柘寺的观音殿内,是潭柘极为珍贵的一件历史文物。后妙严大师终老于寺中,其墓塔在寺前的下塔院。

元代末期的元顺帝孛儿只斤·妥欢贴睦尔崇信佛教,特别是对当时名贯京城的潭柘寺极为青眯,元顺帝曾请潭柘寺住持雪涧禅师享用御宴,并且由皇妹亲自下厨,礼遇之高前所未有。

明初重臣姚广孝法号道衍,被明太祖朱元璋挑选高僧,从侍燕王朱棣,建文帝削藩时,朱棣按照姚广孝的谋划,起兵“靖难”,从而夺取了皇位,即为明成祖。朱棣继皇帝位后,封姚广孝为僧录司左善世,庆寿寺钦命住持,后又加封为太子少师,赐名“广孝”,仍参与军政大事。功成名就之后,姚广孝辞官不做,而到京西的潭柘寺隐居修行,每日里与自己的老友,潭柘寺住持无初德始禅师探讨佛理。期间,明成祖朱棣曾到潭柘寺看望过他。据说当年修建北京城时,设计师就是姚广孝,他从潭柘寺的建筑和布局中获得了不少灵感,北京城的许多地方都是依照潭柘寺的样子修建的,太和殿就是仿照潭柘寺的大雄宝殿而建的,同为重檐庑殿顶,井口天花绘金龙和玺,所不同的是更高大了一些而已。后来姚广孝奉旨主持编纂《永乐大典》才离开了潭柘寺,但其在潭柘寺隐居修行时的住所少师静室,至今犹存遗址。

明代从太祖朱元璋起,历代皇帝及后妃大多信佛,由朝廷拨款,或由太监捐资对潭柘寺进行了多次整修和扩建,使潭柘寺确立了今天的格局。

明代的潭柘寺成为当时对外交流的一个窗口,许多外国人久慕潭柘寺的盛名,而纷纷到此来学习佛法,有的甚至终老于此,其中最著名的有日本的无初德始、东印度的底哇答思、西印度的连公大和尚等人。

万历二十三年,达观大师奉神宗皇帝朱翊钧之命,任潭柘寺的钦命住持。在此期间,由万历皇帝的母亲慈圣宣文明肃皇太后出资,在达观大师的主持下,对潭柘寺进行了大规模的整修。达观大师与朝廷密切,经常奉诏进宫为皇室讲经说法,从而进一步加深了潭柘寺与朝廷的联系。

在明代,潭柘寺曾进行了多次大规模的整修和扩建。宣德年间,“孝诚皇后首赐内币之储,肇造殿宇”,对潭柘寺进行了整修和扩建。从正统三年二月到第二年九月,潭柘寺又大兴土木,在皇室的资助下,扩建寺院,广造佛像。在此期间,英宗皇帝“诏考戒坛”,奉英宗皇帝之命,在寺内修建了戒坛,英宗皇帝赐名为“广善戒坛”,越靖王朱瞻墉还在寺内建造了一座高大的金刚延寿塔,正统四年,明英宗“颁大藏经五千卷”给潭柘寺。

弘治十年(1497年),司礼监太监戴义出资作为工食费,并奏请明孝宗拨款,对潭柘寺再次进行了整修和扩建。正德二年(1520_年)三月到次年九月,潭柘寺又进行了历时一年半的整修,“殿庑堂室焕然一新,又增僧舍五十余楹”,再一次扩大了寺院的规模。万历二十二年(1594年),由孝定皇太后出资,整修潭柘寺,增添殿宇,并建造了方丈院等房舍80余间。

明代的200多年期间内,皇帝几次对寺院赐名,因而寺名几次更改。明宣宗赐名“龙泉寺”,天顺元年,明英宗“敕改仍名嘉福寺”,但民间仍称其为潭柘寺。

清康熙二十五年(1686年),康熙皇帝降旨,命阜成门内广济寺的住持僧,著名的律宗大师,与自己相交多年的震寰和尚为潭柘寺的钦命住持。当年秋天,康熙皇帝驾临潭柘寺进香礼佛,并且留住了数日,赏赐给潭柘寺御书金刚经10卷、药师经10卷、沉香山1座、寿山石观音1尊、寿山石罗汉18尊。

康熙三十一年,康熙皇帝亲拨库银1万两,整修潭柘寺。在震寰和尚的亲自主持下,从康熙三十一年秋到三十三年夏,历时近两年,整修了殿堂共计300余间,使这座古刹又换新颜。

康熙三十六年,康熙皇帝二游潭柘寺,亲赐寺名为“敕建岫云禅寺”,并亲笔题写了寺额,从此潭柘寺就成为了北京地区最大的一座皇家寺院。

康熙三十七年,康熙皇帝为牌楼亲题匾额,并赐给潭柘寺桂花12桶和龙须竹8杠,这就是我们现今在寺中所见到的“金镶玉”和“玉镶金”竹。

康熙三十八年,康熙皇帝命著名的律宗高僧止安律师为潭柘寺的钦命住持,并赐给潭柘寺镀金剑光吻带四条,安装在大雄宝殿的殿顶上,现今这四条金光闪闪的吻带依然完好如初。

清雍正年间一向深居简出的雍正皇帝也专程到潭柘寺进香礼佛。

乾隆七年(1742年),乾隆皇帝第一次游幸潭柘寺,“赐供银二百金、匾额九、楹联二、诗二、章幅子一轴、法琅五供一堂”。在潭柘寺到处都留下了乾隆皇帝的墨宝。乾隆九年,乾隆皇帝把御笔心经和自己手书的诗篇赐给了潭柘寺。

嘉庆皇帝也像其前辈一样,崇信佛教,他也曾到潭柘寺进香礼佛,游玩赏景,现留有其所作的《初游潭柘岫云寺作》五言诗一首。

1920_年蒋介石来北京时,曾专程到潭柘寺去进香。

1950年,北京市园林局接管了潭柘寺,稍加整修后,作为名胜古迹景区向游人开放,成为北京市首批开放的七个公园景区之一。

1956年,全国人大朱德委员长到潭柘寺视察,指示有关部门,要修建一条从门头沟通往潭柘寺的公路,为前来游览的人们提供交通上的方便。

1957年夏,陈毅副总理到潭柘寺参观视察。

1957年10月28日,经北京市人民政府批准,潭柘寺被列为北京市首批重点文物保护单位,对潭柘寺的文物保护工作起到了很大的作用。

1964年春,全国政协委员、末代皇帝溥仪到寺参观考察。

期间,潭柘寺受到了空前的浩劫,文物遭到了毁坏和流失,建筑也受到了损坏,因而于1968年底被迫关闭,停止开放。

1978年,北京市政府拨款,重修潭柘寺。这次重修不仅整修了殿堂,重塑了佛像,而且还修建了旅游服务设施。1980年7月,潭柘寺进行试开放,8月1日正式向游人开放。

年初,潭柘寺恢复宗教活动。

20_年6月,国务院确定潭柘寺为全国重点文物保护单位。

20_年夏季,潭柘寺举办一系列庆典活动,庆祝建寺16周年。经考证潭柘寺创建于西晋永嘉元年(320_年),这个考证结果得到各界认同。

20_年9月9日潭柘寺举行了隆重的建寺1720_年周年庆祝活动。

在很多门头沟的老人口中,潭柘寺的寺名有这样一个传说:当年佛教华严宗高僧华严和尚居住在幽州城北,“持《华严经》以为净业”,“其所诵时,一城皆闻之,如在庭庑之下”。很多信徒踊跃捐助,助其在幽州开山立宗,所以华严祖师就去找当时的幽州都督张仁愿,向其求建寺之地,张仁愿对华严祖师说:“和尚想要多少土地,地址可曾选好?”于是华严祖师带张仁愿来到了潭柘山嘉福寺附近西坡姜家和东沟刘家的土地,张仁愿对华严祖师说这是有主之地,我也不好擅自做主。就把姜姓和刘姓地主一起叫来协商,两地主本不想给,但看在张仁愿的面子上对华严祖师说:“和尚想要多少土地?不可太多,太多的话我们以后就没有饭吃了。”华严祖师知其俱是当地数一数二的大地主,良田无数。便取出盖自己蒲团的毯子对二人道:“不多不多,两位施主可否割这一毯之地与我?”姜姓和刘姓地主一看只有这巴掌大的一块毯子,忙不迭的答应,并且请张仁愿做中人。华严祖师见张仁愿答应了做中人,就把手中布毯往空中一抛,只见布毯在空中越来越大越来越大且迟迟不落地众人目瞪口呆,不一会,布毯已经大到遮天蔽日,两地主面如土色的喊:“够了,够了!请大师慈悲,不要让它再大了!”华严祖师含笑看了二人一眼说:“落”于是毯子就落了下来。直直盖住了好几座大山。张仁愿对两人道:“这一毯之地就让与华严大师,二位可不要反悔。”二人一看真佛在此,哪敢反悔。于是华严祖师就在此地以破败了的嘉福寺为中心,重建寺庙。修筑殿宇,扩建寺院。因寺院后山有两股丰盛的泉水,一眼名为龙泉,一眼名为泓泉,两股泉水在后山的龙潭合流后,流经寺院,向南流去,不仅满足了寺院日常的生活用水,而且还可能灌溉附近大片的土地农田,故华严大师命名此寺为“龙泉寺”。但华严祖师以一毯之地建寺的大神通却广为流传,当地人都私下称此寺为“毯遮寺”后经千年,“毯遮寺”就逐渐演变为“潭柘寺”。

景区

进香古道

潭柘寺[1]历史上游人香客云集,香火很盛。从金代以后,每个朝代都有皇帝到这里来进香礼佛,后妃、王公大臣更是数不胜数,平民百姓则更是难以胜记,特别是从明代之后,潭柘就已经成了京城百姓春游的一个固定厂所。潭柘寺地处深山,交通不便,在历史上曾形成了多条古香道,从不同的方向通往潭柘寺。这些古道有的是皇室或官家出资修建,有的是由与潭柘寺结有善缘的民间香会出自于对佛的虔诚之心,而集资修筑的,还有的是当地的商号与百姓共同修筑的。这些古香道经过了历代不断的整修,使用了几百年乃至上千年,为潭柘寺的对外交往,为善男信女到潭柘寺进香礼佛,发挥了巨大的作用。

芦潭古道

芦潭古道是旧城通往潭柘寺的一条主要道路,原是一条山间土路,路面质量较差。从清代世宗雍正皇帝起,在河北省易县修建皇陵,即清西陵,雍正皇帝即葬于斯。为了拜谒皇陵之需,乾隆年间由朝廷出资,将原有的道路拓宽展平,并将部分路段用条石铺砌,当时称为“京易御道”。芦潭古道是京易御道的支线,当时也得到了整修,拓宽展平,部分路段铺砌了条石或石块。芦潭古道起自于京易御道上的卢沟桥,过长辛店,东王佐、沙窝村、大灰厂,穿过石佛村,到达戒台寺,翻过了罗睺岭,走南村、鲁家滩、南辛房、平原村,到达潭柘寺。清康熙二十五年(1686年),康熙皇帝玄烨在去潭柘寺时,走的就是这条芦潭古道。

这条古道从石景山区的庞村,过永定河后,经卧龙岗、栗园庄、石门营、苛罗坨、越罗睺岭,与芦潭古道会合,到潭柘寺,全长20公里的路线与现今108国道门头沟段基本相吻合。这条古道是京城香客去潭柘寺的主要道路,而且平坦易行,并比芦潭古道近5公里。位于栗园庄的奉福寺是潭柘寺的下院,是远途香客去潭柘寺的中转站,从京城而来的香客,一般都要先在奉福寺休息一夜,第二天再赴往潭柘寺。返回时也要在奉福寺休息一夜,第二天返回京城。清代诗人震均作有一首《丁酉秋游一百四十韵》,详细地记述了这条路线,以及沿途的风光和见闻。这条古香道同时也是潭柘寺的一条主要运输线,奉福寺管理着属于潭柘寺的13座粮庄,并且设有粉坊、磨坊、麦坊等,是潭柘幸的总仓库和粮食、副食、蔬菜的主要供应基地,每天都用骡马向潭柘寺运送生活必需品,所走的就是这条庞潭古道。

现今门头沟永定镇的东、西辛称村,原来合称为“新城”在历史上是永定河上的一处古渡口,也是一座繁华的大集镇。新潭古道从新城开始,经何各庄、太清观、万佛堂,翻过红庙岭,经桑峪到达潭柘寺。这条道路几乎是直线,全长不到20公里,是京城到潭柘寺最近的一条古道。除了部分香客走这条古道去潭柘寺外,新潭古道还用于商业运输。潭柘寺一带盛产煤炭,有许多小煤窑,运输煤炭的骡子、骆驼、毛驴进行在古道上日夜不断。在明代新潭古道得到了整修,部分路段修建了土桥,铺砌了条石或石块。现今从万佛堂至红庙岭的一段古道仍保持着原貌。

修建于唐代的古“玉河大道”是从北京到门头沟的主要道路,从石景山区的麻峪开始,过永定河后,经大峪、东西辛房到圈门,上九龙山,经峰口庵到王平口。其中从麻峪到圈门一段为平原,道路即宽又平坦。于清康熙年间,对道路进行了重修,于清代末期改建为京门公路,解放以后重修了京门公路,并开通了门头沟区的第一条公共汽车线路,从阜城门到门头沟的圈门。门潭古道从圈门向南,翻越南大梁,到达潭柘寺,这条道路只有上山时为几百米长的上坡路,到了山上之后,基本上都是盘山而行的山路平道,绕过两个山头之后就到了潭柘寺,全长只有三四公里。

这是指从潭柘寺通往王平口的一条古道。从潭柘寺开始,经阳坡园、赵家台、十字道到达王平口。王平口是京西重要的交通枢纽,从王平口向西经宅舍台、玉皇庙、东板桥、千军台,翻越大寒岭,过煤窝到军响,进入清水河谷地,向西经斋堂、清水到洪水口,翻越山岭就到了河北省的涿鹿县,远可达山西、内蒙等地,是西北而来的香客去潭柘寺的主要道路,门头沟西部地区的香客去潭柘寺也都走这条古道。在抗日战争时期,斋堂地区是平西抗日根据地的中心,根据地的许多物资都是从这条古道运进山里去的,八路军、武工队、县大队也通过这条古道进入潭柘寺地区,打击敌人,将潭柘寺一带由敌占区变为游击区,并以此为依托,向永定镇一带发展。解放战争时期,中共宛平县委和县大队也是从这条古道进军潭柘寺地区,并于1947年解放了潭柘寺地区。这条古道既是一条西北部地区进香潭柘寺的古香道,同时又是一条具有革命意义的交通要道。

潭柘二宝

宝锅

天王殿前有一口铜锅,直径1.85米、深1.1米,是和尚们炒菜所用。此锅原在东跨院北房西次间,现在那里还有一口更大的锅,直径4米、深2米,一次煮粥能放米10石,需16个小时才能煮熟。由于锅大底厚,文火慢熬,故而熬的粥既粘且香。关于这两口锅,还有“泼砂不漏米”之说,原来,锅底有“容砂器”,随着熬粥时的不断搅动,砂石会沉入锅底的凹陷处。

石鱼

潭柘寺观音殿西侧有龙王殿,殿前廊上有一石鱼,长1.7米、重150公斤,看似铜,实为石,击之可发五音,传说是南海龙宫之宝,龙王送给玉帝。后来人间大旱,玉帝送给潭柘寺消灾。一夜大风雨时,石鱼从天而降,掉在院中。据说石鱼身上13个部位代表13个省,哪省有旱情,敲击该省部位便可降雨。现在寺中的石鱼为后来复制的。

潭柘十景

平原红叶

潭柘山的红叶早在明清时期就已经名冠京城。秋天是潭柘寺最美的季节,古刹所处的平原村,山上长满了柿子、红果、山楂、秋梨等果木树以及黄栌、丹枫。金风过后,这里“霜草萦浅碧,霜梨落半红”,可谓是“漫山红遍,层林尽染”,如火似霞,宛如丹桂涂朱。这就是潭柘十景之一,平原红叶。

九龙戏珠

潭柘山背靠一座浑圆的小山,此山植被繁茂,青翠欲滴,名曰宝珠峰,当地人则称其为蜘蛛峰。在小山的周围,有九座高大的山峰拱卫环护,从东边数起,依次为回龙峰、虎踞峰、捧日峰、紫翠峰、集云峰、璎珞峰、架月峰、象王峰和莲花峰。“一峰当心,九峰环立”,九座高大的山峰围成了一个半圆形的马蹄形,而潭柘寺所在的宝珠峰位于中心,恰似九条巨龙围绕着一颗宝珠,在争抢、玩耍、嬉戏。由于有这九座高大的山峰作为屏障,从而挡住了从西北袭来的寒流和风沙,宝珠峰才能松柏苍翠,花繁草盛。

千峰拱翠

潭柘山值被繁茂,春游潭柘寺最有情趣。站在寺前,环顾四周,但只见群山起伏,层峦叠嶂,满目青绿,赏心悦目。近在眼前的宝珠峰松柏苍翠,蒿草新绿。清代诗人王嗣槐有诗赞曰:“山足岗低夕杳冥,树蓝坐隐九峰青。含桃红点祗园树,修竹苍浮曲水亭。”就连那位遍游全国青山绿水的乾隆皇帝见到了此处的美景,也不禁吟出了:“青山绿如洗,四面作佳邻”的诗句。这就是潭柘十景之三,千峰拱翠。

万壑堆云

夏日天气变化无常,山区尤甚。炎炎烈日西斜,凉风骤起,抬头远望西北天际,但只见乌云翻卷而来,西山爽气朝来歇,倏忽玄阴满四陲。如钱塘潮涌,如天兵布阵,滚过山坡,溢满山谷,风穿林吼,空谷传音,汹涌屡欲崩,与山相吞吐。这时候若登上寺内的毗卢阁,你才会真正体会到“山雨欲来风满楼”的韵味。这就是潭柘十景之四,万壑堆云。

殿阁南薰

登上高大的毗卢阁,只见眼前殿宇嵯峨,整座寺院香烟缭绕,每座殿堂前的铁焚炉、铜香炉内,成炷成把的高香燃尽一层又一层,烟雾升腾,弥漫全寺。透过青烟,钟馨声悠,幡幢微荡。游人至此,仿佛置身于西天佛国的祥云慈雾之中,颇有一种出凡入圣之感。

御亭流杯

流杯亭,位于行宫院内,是当年清代乾隆皇帝为得“曲水流觞”之趣而建。这种建筑仅在中南海、故宫乾隆花园等少数几座皇家御园以及恭王府才可以见到,潭柘寺的“流杯亭”可算是在民间稀有的一座了。这里旁有竹林,伴以古松,环境清幽,是个消暑纳凉的好去处。民国时期的著名旅行家田树藩有诗赞曰:“猗亭畔景殊出,修竹风清送晚秋。隔院钟声传耳底,石间泉水入亭留。”如今的流杯亭是最吸引游人的地方之一。

雄峰捧日

中国的许多旅游胜地都有观日出的景致,但在潭柘寺观日出更令人陶醉。清晨登上观音殿前的月台,举目望去,只见雄伟的捧日峰的身影在晨光白霭中逐渐清晰。须臾,东方渐明,一轮红日冉冉而起,仿佛是捧日峰用合拢的巨手将红红的太阳缓缓地托起,这种雄浑壮丽的景观,你只有在潭柘寺才能一饱眼福。诗人黄叔琳赞曰:“晓钟声度白云层,霞气冥蒙冷翠凝。扶杖独来峰顶望,四山浮黛日初升。”

层峦架月

夜静观景,在潭柘寺,令你神驰心醉。夜幕降临,群山沉寂,只有殿堂内佛像前的香火烛光透过窗门,在星星点点地闪烁。这时候你登上延清阁,遥望天际,只见宛如波涛起伏,高低错落的峰峦映在星光点点的天幕上。一轮明月漂浮在由峰峦组成的波涛之上,秀美的架月峰托着宛如银盆的明月,不愿让她坠落下去。“珠斗横斜碧汉低,夜凉风露正凄凄。冥蒙淡月谁留得?影在苍松翠岭西。”

锦屏雪浪

quot;天然一架锦屏开,不费人间智巧排。“冬季的潭柘山景色别具一格。瑞雪初霁,层峦重岭,茫茫一片,”红装素裹,分外妖娆。“尤其是南面的锦屏山更是秀美,抬头望去,恰如一幅锦绣玉雕的美丽图画。起伏的山峦宛如玉龙盘绕,又像蜡雕银铸。皑皑的白雪好似满山梨花,又像海上银波,若身处此情此景之中,你一定会由内心里呼喊出来,”好一派北国风光!“

飞泉夜雨

篇9:介绍北京烤鸭导游词

相信有些朋友在家也吃过所谓的北京烤鸭,我出差去外地时也吃过几回,但一尝,都是按照当地口味改良过的,。像广东的名菜“过年金猪”,烤得皮又硬又厚又脆,片下来的时候也只有皮没有肉,那怎样是北京烤鸭呢,应该叫广东烤鸭才对!所以今天大家既然来到了北京,还是应该尝一尝最正宗的北京烤烟是什么味吧!

要说北京呀,经营烤鸭的店很多,但是最正宗的是哪一家?就是大名鼎鼎的全聚德!烤鸭的历史可悠久了,最早在南北朝的《食珍录》中就已记载“炙鸭”。后来朱元璋在南京建都后,皇宫的御厨把南京著名的湖南鸭用碳火烘烤,大受皇帝的赞扬。到了名成祖朱棣迁都北京,烤鸭技术也带到北京,故宫《五台照常膳底挡》中记载:13天中,乾隆皇帝吃烤鸭8次。不过那时的烤鸭还是采用闷炉烤鸭,嫩是嫩了,但不香脆,后来是全聚德的创始人改良了烤法,才成为今天名传海外的北京烤鸭的。

要说这全聚德的鸭子好吃,那是从选料、宰杀、烧烤、上桌都有自己一套独特的究竟。先说这选料吧,首先就要选著名“北京填鸭”它羽毛洁白光泽、翅短背长、腿粗体壮。最早是饲养在海淀区玉泉山的温泉里,因此鸭羽毛洁白,外貌格外漂亮,而且玉泉山的温泉入冬不冻,泉区一年四季有水草,鸭子在这里喝的是矿泉水,吃的是矿泉鱼虾和水草,品质格外的好。

在明朝是,由于有北京鸭的鸭油制作点心别具风味,其他油脂难以比拟,因此,当时人门样鸭的目的多为提取鸭油制作糕点。当时为了得到更多的鸭油采用了一种独特的填喂法,就是35天前的雏鸭可自由取食,而最后15-20天,就开始采用一种人工的喂食器,把鸭子一只只地抓过来喂食器填喂,每6小时进行一次填喂,每昼夜填四次,这样鸭子长得才快,油量多,因为非常费事,所以价值极高。后来自从发现这样养出来的鸭子不但油多,而且肉特别嫩之后,这个办法更是流传海外。

全聚德的烤鸭一定要选用饲养期40天、重5斤半的。饲养时间短肉不够厚、时间长又会过老,影响口感。宰杀后的鸭子退毛也很讲究,比如鸭脯部位的皮肤特薄,择毛时要用钳头一根根拔,决不能把鸭皮弄破,不然在进行全聚德独特的冲气流程时就会漏气而不能用来烤制了。

说道这打气的程序可真是十分有趣,用拇指沿食管向嗉囊推进,使食管与周围的结缔组织分离。然后把气泵的气嘴由刀口插入颈腔,慢慢将空气充入鸭皮下脂肪与肌肉组织之间,当气充到八成满时,关上气门,取下气嘴,紧紧卡住鸭颈根部防止跑气。打气时不能过足,以免造成破口跑气,如果充气太少又会使外形皱瘪不丰满,所以是很讲究的。

在充好气才开始开膛,厨师要一直在过程中保持气不漏掉,而且开膛也不是像平常所谓的开膛破肚,而是从鸭右腋开一个只有1寸的小口,用非常奇异而独特的工具和方法取出内脏。脏全部掏净后,用高粱秆一节,一头削成三角形,一头削成叉形,做成“鸭撑”。然后从那个小口伸入鸭膛撑住,这样就能使鸭脯隆起,烤制时不会扁缩。

烤制的木材也是十分讲究的,一定要选用果木,以梨木和枣木最佳,也有用苹果木和柿子木的,果木燃烧时游离出的芳香物质可使鸭子有一种特殊的异香。刚刚出炉的鸭子色呈枣红,油润发亮,皮脆肉嫩,外焦里嫩,香气扑鼻。

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